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検察審査会から強制起訴された小沢一郎氏の裁判が結審し、判決が4月26日に言い渡される。これを機会に司法のあり方を決定的に追及しなければならない。以下に田中良紹氏の「裁かれるのは日本の民主主義」を紹介する。

裁かれるのは日本の民主主義

 検察審査会から強制起訴された小沢一郎氏の裁判が結審した。来月26日に判決が言い渡される。裁判の過程で浮き彫りになったのは検察の犯罪的な捜査手法である。検察は思い込みから小沢氏の裏金捜査を始めたが、不都合な証拠は隠し、都合の良い証拠だけをメディアに流して国民に「小沢クロ」の心証を与え、それでも起訴が出来ないと検察審査会に嘘の証拠を示して起訴に導いた。
 証拠を改竄する権力がこの国に存在する事が裁判で明らかにされた。普通の国なら民主主義に対する冒涜だと国民やメディアが騒ぐところである。強制力を持つ捜査機関が暴走する事を民主主義社会は許さない。国民はそのために代表を選んで立法府に送り込み、行政権力や司法権力を監視させるのである。ところがこの国はまるで違う。

 国民から選ばれた政治家を「巨悪」(ということは国民は巨悪なのだ)、それを摘発する検察を「正義」と考えるマインドコントロールに冒され、国民は民主主義とは真逆の論理を信じ込んでいる。だからこれほどの問題が分かってもメディアは不感症でいられる。証拠改竄をした検察を「民主主義の敵」と言わずに不心得者がいるという程度に非難する。
 そのくせ小沢氏には「庶民感覚から外れた金銭感覚」とか「道義的責任」とか的外れな批判を欠かさない。そもそも今回の事件で問われている罪は普通の民主主義国なら問題にされない微々たるものである。政治資金収支報告書に間違いがあったとすれば、会計責任者が訂正を求められるだけで、犯罪になどならない。

 ところが検察は小沢氏がゼネコンから裏金を受け取っていると思い込み、叩けば必ずほこりが出ると信じて捜査を始めた。そして政治資金収支報告書の「期ズレ」が見つかり、それが裏金疑惑につながると思い込んだ。ところが捜査をしても裏金の証拠が出てこない。この2年間、常に追い詰められていたのは検察である。

 裁判に持ち込めば大恥をかくだけで不起訴にするしかないのだが、「馬鹿メディア」を煽って国民に「小沢=巨悪」を信じ込ませたから、振り上げた拳を下ろせない。そこで素人集団の検察審査会に嘘の証拠を出して起訴させる事にした。無罪になったとしても自分たちの失点にならない方法はそれしかない。ところがその裁判で特捜部の犯罪性が露見したのだからお粗末である。
 東京地検特捜部が生まれて初めて政界汚職に切り込んだのは1954年の造船疑獄事件である。日本の造船・海運業界が自由党幹事長佐藤栄作氏に贈賄していた事が分かり、特捜部は佐藤氏を逮捕しようとした。ところが犬養法務大臣の指揮権発動に阻まれて涙を飲んだ。それがこれまで語られてきた定説である。

 ところが真相はまるで逆であった。検察幹部が政治家に頼んで「指揮権発動」をしてもらったのである。最近では複数の検察関係者がその事を認めている。しかし当時の何も知らない国民は「政治が悪」で「検察は被害者」と信じ込んだ。そこから「政治家=巨悪」、「検察=正義」のイメージ作りとマインドコントロールが始まる。
 真相はこうである。犬養法務大臣は指揮権発動に反対で辞表を出して抵抗した。それを慰留して指揮権発動させたのは緒方竹虎副総理である。緒方氏は国民から「クリーンな政治家」と見られていたが、検察の捜査が拡大すれば自身に及ぶ恐れがあった。またアメリカのCIAが吉田総理に見切りをつけ、緒方氏を後継総理にしようとしていた。そのため緒方氏は法務大臣に指揮権発動をさせて事件の拡大を防ぎ、また国民世論を反発させて吉田政権に打撃を与える必要があった。

 緒方氏に指揮権発動の知恵をつけたのは検察自身である。検察は疑獄捜査に着手して盛り上がる国民世論に実は困っていた。裁判を維持できる証拠がないため裁判に持ち込めない。そこで事件を担当していた検察幹部が緒方副総理に耳打ちをした。政治の圧力で事件が潰れれば検察は大恥をかかなくて済むどころか国民から同情され、捜査の内実を隠せば政治の世界からも喜ばれる。一石二鳥であった。

 狙い通りに国民世論は指揮権発動に反発し、犬養法務大臣は辞任、吉田内閣もその年のうちに総辞職した。こうして検察は「巨悪に切り込む正義の味方」を演ずるようになるが、実態はこれも全く違う。緒方副総理に指揮権発動の知恵をつけた検察幹部は検察トップに上り詰め、造船疑獄で被疑者であった佐藤栄作氏と密接な関係を築く。それ以来、特捜部は次々に政界捜査に乗り出すのだが、摘発されるのは佐藤栄作氏のライバルの池田勇人氏や河野一郎氏の派閥の議員ばかりである。つまり佐藤長期政権が可能になったのは、佐藤氏に対する自民党内の脅威を検察が力で取り除いてくれたからであった。
 特捜捜査の原点はここにある。誕生以来、常に一方の政治勢力と手を組んで自らの地位を守り、政治と裏取引をしながら、国民には「巨悪に挑戦する正義」として振る舞ってきた。それを終始支えてきたのが民主主義の原理を理解する能力のないメディアである。わずかな情報のエサに釣られて簡単に権力の走狗となってきた。そして情けないのは政治家も検察権力に迎合する事が自らを守る第一と考え、数々のでっち上げ捜査に口をつぐんできた。

 今回の裁判で裁かれるのはそうした日本の体制である。小沢一郎氏が有罪になろうが無罪になろうが問題は終らない。有罪になれば民主主義に対する冒涜を許す日本の司法を徹底的に追及していけば良い。無罪になれば、これまたこれまでの日本の体制を徹底解剖して問題点を除去していかなければならない。来月末に予定される判決は結論ではなく出発点なのである。

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