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田中良紹の「国会探検」より

「動機」の政治と「結果」の政治

 政治は「結果」である。どんなに「動機」が正しくとも「結果」を出せなければ意味がない。ところが「動機」が正しければそれで良いと考える人たちがいる。その人たちは正しい事を主張するのが政治で、正論は必ず理解されると信じているらしい。信ずるのは勝手だが、それでは余りにも世の中を知らない。人間は「理屈」で動くのではない、「利益」で動くのである。

 しかも正論は人さまざまである。全員が正しいと思うことなどまずない。誰かが「正しい」と言えば、別の誰かは「正しくない」と主張する。時代が変われば正しさの基準も変わる。正しい事を実現したと賞賛された政治が後に批判された例はいくらでもある。

 以前書いた『増税の「理」と「利」』で、私が坂本龍馬を一級の政治家と評価した理由はそこにある。「維新の志士」と呼ばれる人たちは、ひたすら「尊皇攘夷」を正論として結果も考えずに突き進んだ。しかし龍馬は「理屈」を叫んで世の中が変わると思っていない。薩長連合は、薩摩には米を、長州には武器という「利益」を龍馬が与えたから成就した。

 そして龍馬には新時代を切り拓く戦略とシナリオがあった。徳川家に「大政奉還」させ、天皇中心の体制を作るが、しかし政治を執り行う能力に乏しい公家や薩長の田舎侍に政権を任せるのではなく、それまで政治を執り行なってきた徳川体制を温存させ、ドリームチームとでも言うべき公武合体の大連立政権を作ろうとした。それが欧米に対抗するための日本国誕生のシナリオであった。

 ところが龍馬は暗殺され、ほどなく戊辰戦争が起こり、龍馬の描いた「公武合体政権」のシナリオは消滅した。代わりに「動機」の正しさを主張する幼稚な連中が明治を作った。だから「週刊新潮」に文芸評論家の野口武彦氏が連載するように、明治の「め」は目茶苦茶の「め」なのである。そう考えると坂本龍馬が暗殺され、彼の戦略とシナリオが消えた事が日本を政治未熟の国にしたとも言える。

 こう書いてきたのは、昨年11月のG20で「消費税法案の2011年度内提出」を国際公約した野田総理が「結果」を出すための戦略とシナリオを持っているように見えないからである。野田総理の発言を聞いていると「動機の正しさを認めてくれ」と言っているに過ぎない。

私は全くそう思ってはいないのだが、仮に「社会保障と税の一体改革」が正論であっても、仮に「財政赤字の解消」が正論であっても、増税で金を取られるのは国民だから、国民にどのような「利益」がもたらされるかを具体的に示さない限り物事は動かない。将来不安を言い募って脅すだけでは国民はついていかない。会社の社長が将来不安だけを口にして給与を下げようとしたら、従業員は社長を代えてましな経営者の下で働きたいと思う。「動機」の正しさを言うだけなら政治家は要らない。政治家の仕事は「結果」を出すための戦略とシナリオを持つ事なのである。

 しかしこの国には「動機」の正しさを主張するだけの政治家が多い。前の総理もそうだった。戦略とシナリオがないから負けてはならない参議院選挙に敗北し、「ねじれ」という負の重荷を背負っても、それを解消する戦略もシナリオもなく、ひたすら野党にすり寄るだけの政権運営を行った。そのくせ「正論」の如き口ぶりで「理屈」だけは言った。

 その前の総理も普天間基地の県外・国外移設を主張したが、その「結果」を出すための戦略もシナリオも持ち合わせてはいなかった。アメリカは普天間基地の辺野古移設が困難な事を百も承知である。だから自民党政権の「努力」を冷ややかに見てきた。自分たちは冷戦後に見合った再編計画を独自に作成していた。自民党に代わってアメリカを納得させるシナリオを出せるのかと思っていたら、結局は絶対に実現するはずのない辺野古移設を認めるという自民党と同じ結論に戻った。

 野党に転じた自民党も酷いものである。「政権奪取」という目的のためならなりふり構わない。「動機」が正しければ何でもやれとばかりに民主党攻撃を行なって自らの人気を下げている。へまをした子供とそれをいじめる子供の喧嘩を見せられているのが今の国会で、公明党の方が本格野党に見えてくるから、つくづく自民党に政権が戻る事はありえないと思ってしまう。この政党の政治家にも「結果」を出すための戦略とシナリオがない。

 歴史学者の中には「陽明学」が「維新の志士」たちに影響を与え、「動機」の正当性を重視する政治風土が生まれたとする見方がある。「動機」さえ良ければ後の事は考えずに「やっちまえー」と言ったのが幕末維新だった。戦後の「60年安保闘争」もそれに似ていると言うのである。

しかし私の知る限り、かつての自民党には「結果」を出すための政治技術があった。シナリオを書ける政治家がいて、誰にも知られずにシナリオを書き、誰にも知られずにそれを実現して行く。大方の政治家はそのシナリオによって動かされている事に気付かない。そして「結果」が国民のためになればそれで良しとする考え方だった。それに比べるとテレビで口角泡を飛ばす政治家や「理屈」だけを言う政治家が子供に見えてくる。古い自民党には悪いところも沢山あったが、しかし今よりは大人の政治をやっていた気がする。

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先輩は尊重しなければならないが、悪臭を放しほうだいにする老人は嫌われる。政界も同じ。板垣英憲氏のブログを紹介する。
 

◆TBS番組「時事放談」で民主党の渡部恒三最高顧問と自民党の野中広務元幹事長が、出演して、相変わらず「老害発言」を盛んに披瀝していた。相変わらず老害政治家ばかり使い、時代遅れも甚だしい。渡部恒三最高顧問は、総理大臣にも、衆院議長にもなれず、政界引退を「有力な後継者がすれば」という条件付きで明らかにしている。そのせいか、発言に新味がなく、むしろ、人生の「たそがれ」を感じさせていた。野中広務元幹事長は、いつも通り、総理大臣にも、衆院議長にもしてくれなかった小沢一郎元代表憎しの論調に変わりがなく、この番組に出演しなくても、分かり切った発言に終始して、小沢一郎元代表に対する悪口ばかりだった。
 こんな論議は、もう飽き飽きだ。それを飽きもせず、番組に出演させて、何の意味があるのか。それこそ、司会者である東大法学部の御厨貴教授の見識が疑われる。しかも、「大阪維新の会」を率いる大阪市の橋下徹市長を、ただバカにするだけの発言に終始していたのには、時代の変化との大きなズレを感じる。こんな老害しか呼べない東大教授が、いかに時代遅れな学者であるかを如実に暴露していた。朝早くから視聴して損した気分だ。
◆野中広務元幹事長は、小沢一郎元代表に農業団体予算数千億円を切られたのを、大変恨みに思っている。だから、この発言は、用心して受け取らねばならない。客観性と公平性がないからである。私たちは、単に有名人だからと言って、簡単に信じてはいけないのである。
 小沢一郎元代表は、決して単純に消費税増税に反対しているのではない。しかし、いまの経済状況と生活水準から、消費税増税は、庶民国民有権者には、きついと同感して、反対しているにすぎない。だから、野田佳彦首相に「一考」を促しているにすぎないのである。何しろ、国民有権者の大半が、消費税増税に反対している。これに賛成派の意見を付け加えれば、それこそ、各州で大暴動が起きるかは知ることができない。
◆それにしても、小沢一郎元代表に対する新聞各紙、テレビ各放送局も、「暗黒人民裁判」の判決となると、様々な意見が飛びかっている。有罪無罪を勝手には、決められないいまの段階で、とやかくは言いにくいけれども、ここ数日、朝日新聞が、東京地検特捜部の捜査に厳しい目を向けて、情報操作しているかのような気配を感ずるものの、これはあくまでも「メルヘン」の世界と混同されて、困惑気味である。何が正しくて、何が間違っているのか、区別がつきにくいのである。
 しかし、本当に生真面目な生活をしている人に対して、東京地検特捜部の検事たちが、自分たちが描いているような犯罪構成要件に合わせるように、無理やり供述を誘導させるなどは、もってのほかである。真実の探求を求められている法曹、そのなかでも、検察官が、まともでなくなったとすれば、堕落しているとしか思えない。
 この問題に対して、渡部恒三最高顧問と野中広務元幹事長が、小沢一郎憎しのあまりのせいか、まともなコメントをしていなかった。いかに私怨を公器であるTBS番組を悪用しているかが、暴露されている。まさに、これこそ、邪道である。

板垣英憲「マスコミに出ない政治経済の裏話」より引用する。

◆東京地検が、東京地裁の要求を拒否するという驚くべき異常事態が明らかになり、小沢一郎元代表の裁判が、「暗黒人民裁判」であることが、ますます濃厚になってきている。東京地裁が要求したのは、小沢一郎元代表を「起訴相当」と議決した東京第5検察審査会に東京地検が提出した「検察資料の開示」であった。東京地裁は刑事訴訟法に則り、適正な手続きに基づいて要求した。だが、東京地検は、これを理由も示さず、拒絶したというのだ。検察、弁護双方ともに裁判所(裁判長)の訴訟指揮に従わねばならない。いつもは「然るべく」などと裁判所の指示あるいは要求に対して、従順であるのに、なぜ今回は丸で都合悪いものを隠そうとするのかの如く、拒否したのであろうか。東京第5検察審査会は、東京地検から提出された検察資料に基づいて小沢一郎元代表を「起訴相当」と議決したのだが、実は、本当に「起訴すべきだ」と確信を持って「起訴相当」と議決したのかと言えば、さに非ずであった。
 ありていに言えば、「市民レベルの感覚ではよくわからない」ので、「裁判所の審理により白黒を判定してもらおう」としたのである。
 これは、市民側が国家権力による権力行使から守るために本来最も大切にしなければならない「疑わしきは被疑者(あるいは被告人)の利益に」という大原則を放棄して、「あいつは、必ず何か悪いことをしているに違いない」という憶測に基づいて、「確たる証拠もない」にもかかわらず、公開法廷に小沢一郎元代表を引きずり出してしまったのである。
 つまり、市民側が、自ら判断しなければならない責任を放棄して、裁判所に「丸投げ」して始まったのが、この「暗黒人民裁判」であった。「丸投げ」するくらいなら、検察審査会は不要である。しかも、もっと悪いは、裁判所の公判において「捜査まがい」の指揮を取らせて、そのなかで「有罪・無罪」を左右する証拠をあぶり出そうという邪道を法廷に持ち込んでしまった。検察審査会が「黒だ」と判断できなかったのなら、「不起訴」の議決をすべきだったのである。
◆ところが、公判の過程で、東京第5検察審査会が小沢一郎元代表を「起訴相当」と議決する根拠にした「検察資料」のなかに、東京地検特捜部に所属していた田代政弘検事が「デッチ上げた捜査報告書」が、多数紛れ込んでいた疑いが濃厚になってきたのだ。これは、小沢一郎元代表の元秘書の石川知裕衆院議員を取り調べた田代政弘検事が独自で創作した「捜査報告書」である。石川知裕衆院議員が取り調べを受けた際、密かに携帯電話に録音していた内容とは全く違う事実、あるいは、しゃべってもいない事実を勝手に書き込んだものであった。これは、「虚偽公文書作成・同行使罪」という明確な犯罪行為である。東京地検特捜部は、これでもって、小沢一郎元代表を起訴しようとして、2度にわたり不起訴処分にせざるを得なかったいわくつきの捜査資料であった。
 にもかかわらず、東京地検は、これら虚偽の捜査資料を意図的に紛れ込ませた「検察資料」を東京第5審査会に提出して、市民側の正常な判断を狂わせ、「起訴相当」の議決を行わせたのであった。
 もし、石川知裕衆院議員が、録音テープに取っていなかったとしたら、裁判所すらも騙すことができたかもしれない。それほど重要な録音テープである。ただ、いまの段階では、裁判所が「完全に騙されたか否か」は、判決を見なければわからないことではある。
◆もう10数年前になるけれども、私は野村証券法務部に頼まれて、英国ロンドンに行くことになっていた。「野村証券」が「ザ・ハウス・オブ・ノムラ」(アルアレツハウザー著、新潮社刊)という本を書いた著者を訴えていた。この本の記述のなかに私が書いた本の記述を基にしたと思われる箇所があったので、その真実性について証言を求められた。
 証券市場というのは、「情報のルツボ」と言われるように日々、虚々実々の情報が世界中から流れ込んでくる。「火のないところに煙は出ない」とは言うけれど、それらの情報の発信源などを1つ1つ綿密に調査する余裕は、証券市場にはない。それでも、いろんな情報が流入してくることだけは「事実」なので、私はそれをありのままに記述していた。ところが、「ザ・ハウス・オブ・ノムラ」の著者は、それらを「断定的」に記述していた。
 野村証券法務部の担当者は、「トラック3台分の資料をロンドン裁判所に送った」と話していた。また、そのとき「英国の裁判は、原告、被告ともに、まず女王様にすべての証拠資料を提示して、これらを整理した上で法廷での審理に臨む」とも説明していた。何事も包み隠さずオープンにするという意味のようであった。これに比べると日本の警察・検察は、都合の悪いことは徹底的に包み隠す習性がある。このために冤罪が起こるのである。今回、東京地検特捜部は、田代政弘検事の上司に累が及ばないように配慮して検察資料の提出を拒否したものと思われる。
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