やっと国民の手で政権が選択できそうです。それは坂本龍馬の夢でもあったようでようです。
詳しいことを田中良紹「国会探検」で「龍馬の夢」という題で詳しく書かれているので紹介します。 

 日本は議会政治の先進国である。にもかかわらず国民の手で政権を選んだ事がない。世界でも珍しい特異な政治体制にようやく転機が訪れようとしている。

 日本に議会政治が始まったのは今から119年前の明治23年である。議会開設を求める自由民権運動が薩長藩閥の官僚政治を押し切って実現させた。当時の世界で議会制度を採用していた国は数えるほどしかない。「東洋の島国がこれほど早くから議会制度を採用したのは奇跡」とも言われる。その奇跡を起こさせたのは坂本龍馬の思想である。

 龍馬が暗殺される1年前、京都に上洛していた前土佐藩主の山内容堂に大政奉還論を進言するため、京都に向かう船中で龍馬が後藤象二郎に示した新国家構想、いわゆる「船中八策」に「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」とあり、また暗殺直前に龍馬が直筆で書いた「新政府綱領八策」にも議会制度の導入が盛り込まれている。

 さらに龍馬暗殺の翌年に龍馬の同志である海援隊が出版した「藩論」を読むと、龍馬の考えていた政治体制は、身分の差別なく全民衆の投票によって政治を行なう代表を決めるが、それが衆愚政治に陥らぬように二度の投票手順を踏む仕組みになっている。現代の間接民主政治を龍馬は140年以上も前に既に構想していた。

 ところが明治政府を樹立した薩長藩閥政府は、明治4年から行なわれた海外視察でアメリカ、イギリス、フランスらの先進国よりも、新興国プロシアの鉄血宰相ビスマルクの影響を強く受けた。ビスマルクは大の議会嫌いであり、皇帝と官僚を中心とする国家体制を大久保利通や伊藤博文に進言する。そのため官僚政治が先行して議会開設には維新後23年を要した。

 議会開設が現実になってからもビスマルクの影響は官僚政府に残っていた。議会開設の前年に黒田清隆総理は「超然主義」を宣言し、政府は議会が何を決めようとも「超然」としてそれには従わない考えを表明した。そうした中で行なわれた第一回衆議院選挙は高額納税者しか投票できない制限選挙で、国民の1%しか参加しなかったが、しかし自由民権派が勝利して官僚政府側は敗北した。

 そのため最初の議会が開かれると、官僚政府が作成した予算案は反対多数で否決された。すると政府は「予算は天皇の大権に基く」と主張して議会の決定を覆す行動に出る。これに怒った衆議院議員の中から辞表を叩きつける者が出た。後に「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民もその一人である。こうして議会制度の先進国でありながら日本の議会政治は不幸なスタートを切る事になった。

 1929年に起きた大恐慌は世界の資本主義国を痛撃した。日本には国家社会主義思想が台頭し、大恐慌の影響を受けなかったスターリンのソ連や、ヒトラーのドイツの「計画経済」を取り入れる動きが出てくる。軍人石原莞爾は満州事変を起こして満州国を作り、満鉄調査部の宮崎正義と組んで重化学工業化のため「計画経済国家」建設を始めた。充分な国力がつくまで戦争をすべきでないと考える石原は、東条英機と衝突して左遷され満州を去る事になるが、その事業を引き継いだのが商工省から派遣された岸信介と椎名悦三郎である。

 彼らは満州から帰国すると、その経験を基に日本の国家改造に取り組む。企業を直接金融から間接金融に変えさせ、企業を銀行のコントロール下に置き、その銀行を大蔵省がコントロールすることで民間企業をすべて計画経済体制に組み込んだ。また業界毎に「統制会」を作らせて官僚の行政指導を行き渡らせるようにし、終身雇用制と年功序列賃金を導入して独特の株式会社形態を作り上げた。これらが「国家総動員体制」の下に行なわれた。

 岸、椎名以外にも「計画経済体制」作りに携わったのが「革新官僚」と呼ばれる官僚たちで、彼らは「資本論」を学びながら戦時計画経済体制を作り上げた。この革新官僚の一部が戦後社会党の理論的支柱となり、岸、椎名が自民党の中枢となる事で、戦後の政治体制には戦前の計画経済体制を支えた革新官僚の影響が色濃く残っている。

 アメリカに占領され、民主化政策によって「デモクラシー」が根付いたかに見える戦後の日本だが、経済構造は戦前と変わることはなかった。官僚が計画した経済政策を民間企業が戦時体制そのままに一糸乱れず遂行する。特に岸内閣以降三代の内閣で通産大臣を務めた椎名悦三郎が主導した「貿易立国」政策によって、日本には自動車と家電製品の輸出で外貨を稼ぐ経済構造が定着した。これが戦後の高度経済成長を生み出す。

 この体制の前提として明治以来の官僚と政党との対立はなくなり、自民党と官僚とが一体となって経済政策を作成し、それを民間企業が遂行する仕組みが作られた。官僚主導を担保するために政権交代はあってはならず、社会党は決して過半数を越える候補者を選挙に立候補させない政党となる。従って国民がどのような投票を行なおうとも政権が代わる事はなく、万年与党体制が続いてきたのである。

 しかし日本の高度経済成長は欧米から反発を招いた。特に自動車と家電の輸出で深刻な打撃を受けたアメリカは、日本をソ連に代わる仮想敵国と見て日本経済の構造分析を行い、強さの秘密が官僚主導の計画経済体制にある事を見抜いて反撃を開始した。小泉政権以来しばしば指摘される「年次改革要望書」の存在などがその事を示している。

 冷戦の終焉によって各国は手探りで自らの進むべき道を探している。日本も例外ではない筈である。もはや戦後日本の成功体験の延長上に成功の道があるとは思えない。官僚主導に代わる国家体制を構築すべき時が来ている。その時に初めて国民が政権を選べる選挙の時を迎えた。権力は国民が作り出すものである。作り出して育て上げなければならない。日本国民はこれからその事を経験する。142年前に坂本龍馬が夢に見た事が現実になる。






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